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2021/5/8-7/11

金沢アートグミ12周年記念 榎本耕一 あいまいのしるし

金沢アートグミ12周年記念
榎本耕一 あいまいのしるし

 

2021.5.8土 − 7.11日
水曜定休 10:00−18:00

主催 認定NPO法人金沢アートグミ  協力 TARO NASU、北國銀行

 

金沢アートグミでは12周年記念とし、画家 榎本耕一の個展を開催致します。 榎本は1977年大阪府に生まれ、金沢美術工芸大学工芸科では鋳金を学びながら、学生時から平行して絵を描いていました。現在は絵画に制作の軸足を置き、神奈川県を拠点に国内外で精力的に発表活動を行っています。 本展では、5年間を過ごし自身のルーツの1つとも言える「金沢」、そして美術教育の入口となった「工芸」をキーワードに、卒業時に制作した金工作品から新作絵画まで、榎本の個人史とその表現の射程を物語る作品群を展示致します。

 

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オープニングトーク
5.8土曜 14時〜15時半
参加無料
金沢アートグミのYouTubeでもライブ配信致します。
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展覧会関連グッズ、榎本さんの愛鳥チュン太グッズも予約販売致します。
下記サイトからも予約購入頂けます。
https://kanazawaartgummi.stores.jp

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榎本 耕一|Koichi Enomoto

1977年大阪府生まれ。金沢美術工芸大学工芸専攻卒業。同大学院博士前期課程中退。現在は神奈川県にて活動。 近年の主な展覧会に2020年「NEW LIFE !!」(TARO NASU、東京)、2019年「六本木クロッシング2019展 : つないでみる」(森美術館、東京)、2017年「ストーン」(TARO NASU、東京)、2015年「超能力日本」(HAPS、京都)、2014年 「21世紀旗手」(TARO NASU、東京)、「絵画の在りか」(東京オペラシティアートギャラリー、東京)、「GRAPHIC NOVEL」(アラリオ・ギャラリー、ソウル)など。

 

《常世波》2017©︎Koichi Enomoto Courtesy of TARO NASU

 

 

金沢といえば工芸都市、立山連峰、魚、とかのあれこれ。ここから一旦離れる。すると自分の体だけ残る。茶色っぽい街並みが目の前に現れる。金沢美大の工芸科で鋳金を学んだ僕の場合、鋳金から一旦離れる。銅を炉で溶かす1500度の灼熱、溶解した銅の液体はセルの眼鏡が曲がる高温の奥で鏡のようになり、僕の顔が映る。 鋳金の技術は今からはるか昔に大陸に現れた。銅鐸・銅剣よりもっと前。三星堆遺跡とか殷とか。工芸という言葉が制度の中に今ある意味として措定されたのは明治。日本が西欧列強に恥ずかしくない日出る国であると言いたくなった時代。歴史はさまざまに興味深く、僕をもっともっと知りたい気分にさせるけれど、子供の頃のようなもっと単純な、息が乱れそうな「俺もやりたい感・やったらどうなる感」はどこかにないかと考えてみた時、高熱を作り出すこと、金属を溶かす高揚、思い通りの形にしようという意欲、それを想像する時にやっと、これだ、という実感がある。

 

本展を構想するにあたって兼六園の中のヤマトタケルの銅像を見物した。「明治紀念之標」と言う。石川県出身の西南戦争戦没者を祀る目的で建てられたとのこと。彼らのことを忘れるな、と言うその気持ちが「標(しるし)」という漢字に現れている。なんでヤマトタケルが明治を標するのか。古事記を読むとタケルは悲壮な英雄である。元来バケモノじみたところのあるタケルを恐れたらしい彼の父親は、タケルを次々と戦の死地に向かわせる。お父さんは自分を憎んでいるのではないか、と思いつつも、実父の言う通り日本を平かにすべく連戦連覇するタケルは最終的には闘死するのだから、悲壮そのもの。いずれにせよ日本平定のために異民族を討ち滅ぼしたタケルは、同じく異民族(新政府と考えを異にする者たち)を排した西南戦争の戦没者に重ねる物語としては確かに相応しかろう。

 

この「明治紀念之標」は日本最初期の銅像である。1880年、東京ではなく金沢に建てられた。像の造形は、あの高村光雲も制作に加わった皇居前広場の楠木正成像(高村光雲・石川光明・山田鬼斎・後藤貞行=東京美術学校の先生たちが原型制作)のように千両役者という風情ではない。どこかヘンテコな、でも立派な気もする、銅像というよりは仏像。大和絵由来と思われる顔面、ずんぐりしている。土台も巨石が積み重ねられ、ものすごい。原型製作者には諸説あり、高岡の鋳造職人が鋳込んだそれは、洋魂和才。現在誰がみても西洋伝来のスタイル、銅像の姿をとっている。制作当時は銅像といえば仏像なのだから、ロダンのように受け取られはせず、カネブツさんと言われ信仰対象になったりもしていたらしい。要するに美術なのか工芸なのかそれ以外なのか、曖昧な存在。

同じく見物したハニべ岩窟院も興味深い。石川県出身、東京藝術大学卒、朝倉塾、帝展だった都賀田勇馬氏が第二次世界大戦を経て戦禍の犠牲者の霊を慰め世界平和を願う一大悲願のもとに作り始めた。濃厚に中央を呼吸した氏が石川に戻り、岩窟院に鎮座せしめた彫刻、仏像群。鬼が人体各部を大皿に盛った料理を食べようとしているといったような作品などもあり、高村親子・ロダン系統の正統的な美術陳列というよりも、石川県小松の珍スポットとして認識される場合が多かろう。彫刻的なワザの冴えを感じる彫刻もあれば、もっと砕けたものもある。それは美術館として立派な作品群というよりは、何か、「次へ、次へ!」と作っていく高揚と信仰が、起こっては引く波の繰り返しのようだ。原初的な、金属を溶かす喜びのような高揚感とつながる何か。とにかく、今から、ここで、やる、というあの大切な感じ。

移入された西欧技術を使って日本の事情を現した明治紀念之標、藝大を経て自分の祈念のごときものを造形した都賀田勇馬氏。いずれも一本化することができない曖昧な部分を抱えつつも、ポジティブなクリエイティビティーの、つまり「作ろう!」という意志に浸されたまま、「あいまいのしるし」として目の前に在る。この言葉は、宙吊りを前向きに生きるというニュアンスが入る。この曖昧は温い。

最後に、僕自身。僕は工芸を学んだが絵が好きだったので画家になった。偉大なファイン・アーティストの薫陶を受けるというより、いわゆる現代工芸の先生方の薫陶を受けた。「芸術」というものに対し、いつも膜のようなものを感じてきた。芸術の中に入ろうとすると、なぜかその膜が僕と芸術の間にある。サランラップ越しに触る芸術。僕は芯から芸術家なのか、それとも芸術の技術を使って色々と作る工芸的精神の人間なのか、何者でもないのか。精神的な血統を考えるに曖昧だ。 しかし考えてみれば誰しも曖昧だ。曖昧でない何かに向かわんとする存在がいくつもあり、曖昧でない確たるものとされている制度的ないくつかがある。明治紀念之標、ハニべ岩窟院という温い曖昧は、そのまま僕自身の曖昧に、また西洋と東洋の合間でいつも曖昧だったこの国にオーバーラップしていく。そして曖昧さは、いつも曖昧でないものの創造の方へと、僕らを意欲させる。運動体として止まるよう指令するのである。

 

榎本 耕一